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久慈浜海岸 ~ 映画≪桜田門外の変≫

 2010年10月から公開されている映画『桜田門外の変』は、開国を推し進め攘夷派を弾圧する大老・井伊直弼を水戸の浪士たちが打ち倒した事件を、 襲撃の指揮をとった水戸藩士『関鉄之介』の人物像にスポットを当てた作品で、茨城県内を中心にロケが行われました。 中でも水戸市千波湖畔に設けられたオープンロケセットは、この映画のために江戸城桜田門周辺を再現したもので、 2012年3月31日まで一般公開しています。実際に映画の撮影に使われた撮影用セットを直接見られるとあって、 毎日たくさんの見物客で賑わっています。

 この映画のロケは県内各地で行われており、日立市の久慈浜海岸も使われています。 ここでは、主人公関鉄之介が浦賀沖に現れた黒船を見に来た場面が撮影されました。 また、大統領の誕生祝いの祝砲を撃つ黒船の浮かぶ羽田沖としても撮影されています。
 夏は海水浴場として賑わう久慈浜海岸ですが、すぐ近くに道路や工場があることを忘れさせるような美しい白い砂浜が広がっています。
 映画には映っていませんが白い大きな灯台が国道245号線からすぐ海側に見え、久慈浜海岸からもよく見えます。 これが日立灯台で、高さ24.5メートルの茨城県唯一のデザイン灯台です。 デザイン灯台とは地元のシンボルやモニュメントとして整備されたものです。 日立灯台は茨城港日立港区(旧日立港)の航路標識としての重要な役割も果たしています(光は約30km先まで届くそうです)が、 芝生の美しい古房地公園(こぼうちこうえん)内のモニュメント的な要素もあり、付属舎の屋根を展望台として開放しています。 展望台から太平洋を望む眺めは素晴らしく、一見の価値ありです。
 灯台は無人で遠隔操作されており、内部に入ることはできませんが、1年に1度、灯台記念日の頃には特別公開され、内部にも入ることができます。
 灯台の海側には、漁業の近代化に功績のあった三代芳松氏の銅像が海に向かって立っています。 三代芳松氏は地元久慈浜で漁業に従事していましたが、作業の機械化を図り研究を重ねて、大正15年、改良イワシ揚繰網(あぐりあみ)を発明しました。 これによりイワシ漁獲高の激増をもたらし、日本の漁業界に大きく貢献しました。
 久慈浜海岸からすぐ近くには、久慈漁港に揚がった新鮮な魚介類をリーズナブルな産地価格で買うことができる「道の駅日立おさかなセンター」があります。 敷地内には新鮮なおさかなメニューが味わえる飲食店もあり、日立に来た人が必ず立ち寄る人気スポットです。 また、魚介類が豊富な鮮魚店や活きの良いネタが自慢のすし店などが入ったショッピングセンター「ひたち南ドライブイン」もあり、 ここでも新鮮な海の幸のおみやげがお求めいただけます。

久慈浜
撮影された久慈浜海岸
日立灯台
日立灯台と古房地公園
おさかなセンター
日立おさかなセンター

 お土産を買って帰る前に、桜田門外の変ゆかりの地として是非訪ねたいのが、暇修館と助川城跡です。
 暇修館(かしゅうかん)は、1839年、第9代水戸藩主徳川斉昭が藩政改革の一環として建てた水戸藩15郷校のひとつで、 当初興芸館といいました。郷医大窪光茂が大窪城跡に建てたので医学中心の研修施設として始まりましたが、 1844年暇修館と改名し、身分を問わず学びたい者が余暇を利用して勉強できるよう広く門戸を広げました。 藩校弘道館よりも早く開館した暇修館には多くの医者、神官、郷土、村役人や庶民が学び、 他の郷校とともに水戸藩幕末の教育に重要な役割を果たしたのです。その後、1864年水戸藩天狗諸生の内乱で荒廃し、 廃校となりましたが、昭和48年に復元されました。
 現在は、地域の集会・お茶の会・活花教室・詩吟の会などに広く利用されています。 周囲は静かな竹林に囲まれたなか野鳥のさえずりが聞かれる、近くの喧騒を忘れさせる空間となっています。

暇修館
現在の暇修館

 助川城は、幕末に海防のため築かれた珍しい城です。黒船来航よりも前から外国船の脅威を感じていた 徳川斉昭が1836年に山野辺氏に命じ太平洋を一望できる高台に海防城として建てさせたものです。5年をかけて建築され、 総面積約68万平方メートルで本丸、二の丸、三の丸ほか物見櫓もありました。徳川斉昭は幕府に建言書を出し海防の重要性を説いています。
 徳川斉昭は幕府海防参与として幕政に関わりましたが、大老井伊直弼と対立し、1958年謹慎を命じられました。 その後、孝明天皇が水戸藩へ勅書を下賜した「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」は、徳川斉昭が徳川家にありながら尊王派として中心的な役割を果たし、 朝廷の信頼を得ていたことの証ともいえます。しかし井伊大老はこれを水戸藩の陰謀として徹底弾圧し、 徳川斉昭の永蟄居と、戊午の密勅の返還を命じたのです。 返還を認めない水戸脱藩浪士らが幕政是正には井伊大老の排除が不可欠と考え1860年3月24日に襲撃したのが「桜田門外の変」です。 徳川斉昭は、桜田門外の変後間もない1860年8月15日蟄居処分の解けぬまま水戸で亡くなりました。
 助川城は家老山野辺氏が海防惣司として管理していましたが、幕末の天狗、諸政の内乱に巻き込まれ、1864年に落城してしまいました。
 当時の助川城主山野辺義芸は、諸生派に天狗党の仲間と誤解されて攻撃を受け、やむなく降伏しました。 一方天狗党の過激派は本隊から離れて助川城を攻撃、占領したので幕府軍が助川城を攻撃、助川城は築城からわずか28年で落城したのです。

助川城跡
主郭への城跡碑

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